高校生くらいからずっと自分の中には「人間が自由意志だと思っていたり、努力の結果だと思っているものはすべて幻、まやかしである」というのがあって、これは池谷祐二の「進化しすぎた脳」なんかに強く影響されている。最近は「人間というのは集団生活の中で進化した結果碌でもない仕組みをしていて、差別をしていがみ合うようにしかできていない」というさも科学的に正しいような物語がひっついた思想が語られることが多い。サピエンス全史とかホモ・デウスとかにちらちらとその片鱗が見える。こういうのを長いことみていると自分の中で真実味を帯びてきてしまう
有名な実験がある。被験者に「好きな時にボタンを押してくださいね」といい、ボタンを押してもらって脳の活動を見る。そうすると、押す時間どころか押そうと思う1秒前から「運動前野」という部位が活動しているそうだ(進化しすぎた脳 170ページ)。簡単な自由意志でさえも普通の人が思うような"意思が先にある"ような働きを脳はしていない。よく「我思う故に我あり」とデカルトが言った(実際は『思う我"は"あり』くらいの意味らしい)そうだけど、そういう意味での純粋な意思でさえ存在が保証されていないようなぐらつきを感じる。しかも、自分が小さい頃から信奉する科学がそれをじわじわと裏付けている。
次に進化人類学的語り口について。これらは私の中で真実みを帯びて心にのしかかっているけれど、真実として他人に話すことはまずない。最近の市井の進化人類学的語り口にあなたたちは騙されないようにしよう、と注意喚起したい。人間の進化を知ることは(ボノボとかチンパンジーとか近めの猿を観察する以外)基本的に不可能なので、人類が言葉や集団生活を学んでいく過程が詳細な言葉で尤もらしく語られていたら、まず例え話の類いか、想像だと思った方がいい。最近有名になりつつある「人間は殺し合うことで集団を保ってきたので、その回避手段として世間話や会話がある」というのは、人間の化石が頭部によく傷を持っていたことから類推した想像で、現在それは単に猛禽類の跡じゃないかとも言われているので、かなり今では怪しい説だ。
なぜこれらの怪しい言説を自分は重荷に感じているのか。自分の価値観が揺らぐ、という内容の続きだけど、脳科学が自由意志というある種心のよりどころをガンガン否定しだしたように、私の中にある「科学的に妥当である」という感覚も最近はどんどん破壊されている。例えば反ワクチンみたいな話を私たちは一笑に付せるが、それは自分たちの身の回りの『水は100℃で沸騰する』だとか『ものは下に落ちる』だとかと、少しずつ地続きになっているものに化学のよく知った反応式とかタンパク質の動き方とか食い物を食ったときの自分の体調とか、セントラルドグマとかがあって、それらとワクチンの作用機序がゆるくくっついていて、反ワクチンの言明をひとたび信じてしまえばそれらの地続きになっているたくさんの『事実』を否定する羽目になるからだ。この否定する機構が自分の中で働かなかったら、一体どうすればいいんだろう。
最近は科学的な物語が蔓延しているから、科学的な判定方法の前に「よく語られる科学物語のパターンに沿っているか」が来てしまっている様に感じる。マーフィーの法則とでも言えばいいだろうか。そう上手くいくはずがないじゃないか、というのは多分研究不正が大々的に報じられたときにまず人々が思うことだろうし、他にも疑似科学を否定する時にも「そんなに人間に都合の良いように行くはずがないじゃないか」と思うことが多いだろう。実際、科学的に妥当か、自分の知識の範囲で妥当かと同じような判断軸として「人間に対して上手くいっているか」が挙げられると感じる。
ここで進化人類学のなかで私の周りに多いものを見てみると、「人間というのは本来碌でもない仕組みをしていて、差別をしていがみ合うようにしかできていない」というのは、まさに「人間の都合の良いようには行かない」「きれい事はえてして真実でない」という科学的物語の類型にぴったり合っていて、しかも人類の進化は実際に目で見ることができないので、信じている科学を捨てなくても肯定できてしまう、つまり地続き機構がうまく働いてくれない。
私は自分の中で「自由意志は存在しない」とか、「人間はいがみ合うようにできている」だとかを信じてしまっている。最近の科学による悲観的トレンドに見事に乗せられてしまっているミーハーである。ある種の冷笑主義に近いような、あらゆることが無価値であるみたいな思想に対して、科学的お墨付きが与えられているような気がして、底知れない不安がつねにつきまとっている。Twitter(X)に存在している、ゆるいギーク系の人々なんかにも、同じ人が結構居るんじゃないかと思っている。
虚無主義というのがある。ニーチェからWikipediaを通しての又聞きだけど、今まで価値があると思っていたものが一気に無価値になったときのことだそうだ。今私が死んだとてしばらくすれば何事もなく世界が回るだろうし、人類が滅びても別の生物が同じように繁栄して健やかに過ごすだろうし、地球が数十億年後太陽に飲み込まれても、太陽は銀河系の中心のブラックホールの周りを規則正しく回るだろう。まさに今だ。
積極的虚無主義というのがあって、意味はないけど作れるから、作って生きていこうぜ、というのがニーチェの肯定した話なんだそうだ。こういうまとめ方をしたらニーチェ好きな人や真面目にやっている人から呆れられるかも知れないけど。
池谷祐二は本で『見知った形の自由意志はないけど自由否定はある』と言っていた。先の実験でも運動前野が動いたにもかかわらず手がボタンを押さなかったことがあるんだそうだ。それは人間の意識が運動を止めることはできるんじゃないか、ということを意味する。思えば創作なんかもわいて出てくるアイデアをいくつ採用しようか、という作業だ。自分ができるのは脳が生成したおもしろい話を肯定したり否定してやったりすることで、それは、確かに、別に悪い気もしない。
次に、「人間は社会に属する利己的な生き物である」だけど、残念ながら流行の思想だけあってこれを直接否定する話はあまりない。多分面白くないから生き残らない。あと最初の方では言ってなかったけど心理学とか脳科学とかが慎重にこれらのことを裏付けてくれているので、ある程度は正しそうだ、という話もできる。ただ、こちらには「社会的で利己的なことの何が問題なの?」という視点が存在する。それを知ったことは価値じゃないか、と考えてもいい。例えば「自己肯定感」というのが結構人口に膾炙していると思うのだけど、あれを「人間は社会的な動物なんだから共同体からの疎外感をそう感じているだけ」と解釈する人がいた。だから自分を鼓舞するより他人と仲良くした方が楽になるよ、と。秀逸な考えだ。私が言ったことにならないかな。多分自己を肯定できないことと疎外感が結びついたら、一度疎外感がなくなっても、『自己を肯定できてない』という作られた不満感がのさばり続けるんだろうし、こういう解釈が救いになるだろうと思う。
真実を扱っていないから、ライフハックでもない。ちゃんと地続きの思考をしているわけでもないから、哲学でもないし、思想とすら呼べるか怪しい。自己の啓発がしたい訳じゃないし、瞑想ってほど身体的でもない。これはなんと呼ぶかよく分からないので、別に呼ばずに、こうやって長い文章にしておく。なんだかすごくミーハー的な話になったというか、よく高校生大学生が落ち入りがちな痛い話の寄せ集めみたいになってしまったけれど、こういう虚無感を抱えることは誰にでも多分よくあるので、「今日はお腹が痛かったよ」みたいな誰にでもある日常の話として、書き留めておくし、聞き流しておいて欲しい。